友川カズキ TOMOKAWA KAZUKI

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INTERVIEW » 多田淳之介 × 岩渕貞太


多田淳之介 × 岩渕貞太

 
岩渕
今日は、よろしくお願いします。僕は不定期で、これまで関わった方やもう少し話がしてみたいと思った人と話して活字に残すという企画をしています。多田さんの『RE/PLAY(DANCE Edit.)』※1と『モラトリアム』※2に出演させて頂いて、多田さんは作品を創る時にとにかく枠組みを用意してその中に人が入っていくということ、そういうつくり方をしているのかということを感じています。そして「多田さんは何をみて作品をつくっているのだろう?」というのがとても気になって今回話をしたいなと思ったんです。
多田
確かに今のつくり方は…、昔は戯曲を書いていたのですがそれを書かなくなってきたからなのかな、と思うけれど。でも違うかな、昔から好きだったかも。ひとつ大きいアイデアがあって、その中でやるというのが。『再生』※3は確かに顕著な作品かもしれないですね。
岩渕
『モラトリアム』や『RE/PLAY(DANCE Edit.)』と違って、『再生』は台詞もある作品ですよね。
多田
そう、あれは自分で台本を書いていたぎりぎり最後の頃の作品なので、最初は結構言葉が使われていたけれど、どんどん減っていって、それが歌詞に託されるようになって。
岩渕
『モラトリアム』の時も思いましたが、多田さんは出演者に細かい指示はほとんど出さないですよね。だから多田さんがOKと思うラインはどこなんだろうと、出ている身としては気になるけれど、終わってみると多田さんが用意した枠組みとか箱の中で良い意味で収まっている。つまり成立していると思います。その状態を始めから想定しているのですか?
多田
んー、どうだろう。でも基本的になにが起きてもいいようにはしたいと思っていて。昔からだと思うけれど。昔、もっと演劇らしかった時には、決められた台詞を決められた順番で言うことにも疑問をもっていた。例えばそこで役者がオナラをしたら成立しなくなってしまう、みたいなのはどうなんだろう、って。『モラトリアム』とかをやり始めてからは、何が起きても成立する場ってことを考えてます。逆に枠を越えたほうが面白いとも思っていて。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』も、まあ過剰じゃないですか。でも「とりあえずこの位だろう」と人が想定しやすいところは超えたいというのがあります。その先がみてみたいと思う。
岩渕
さっきは〈枠組み〉と言ってしまったけれど、この間『RE/PLAY(DANCE Edit.)』の稽古をしている時に、〈サバンナ感〉みたいなものを感じたのを思い出しました。枠組みというと壁がたっている様なイメージだけれど、そうじゃなくて出演者が立つ〈場所〉を用意している感じがあるなと思ったのでした。
僕が多田さんに共感する部分というのは、僕自身も作品をつくる時に形の振付が全部決まっている訳ではなくてここからここまではこういう質感やルールで動いていくということを決めていくけれど、微細な動きはその場で決めていくという形で作っています。音楽家の大谷能生さんと作品を発表した時も、二人で音と動きの関係は事前にわりと細かく決めるけれどその場でお互いが仕掛けあって作品が続いていくという形だったんですね。で次の作品はトリオなんですけれど、今回はトリオでその創り方が適応できるのかと思いながらつくっているところです。
多田
ほぉ、面白そうですね。僕が大谷さんとつくった岩渕さんの作品を観た時には、本当にセッションだと感じて、インプロというよりは同じ曲を弾いているのが伝わってきました。僕自身も大谷さんと作品を創ったことがあるけれど、彼とやるというのは現代音楽…と言っていいのかわからないけれど…、まぁ時間のこととかその場で起きていることとどう向き合っているかとか出来事に関して、が重要ですよね。大谷さんと演劇の共通点は〈出来事とどう向き合うか〉ということな気がします。サックス持っているけれど吹かない、とかあるよね。
岩渕
そうそう。そうそう。水の入ったコップにサックスの頭の部分を入れて鳴らしているのも、みたことがあります。大谷さんとご一緒して始めの頃に特によく話したのは「そこに在るものは在るよね。見えないことにするとつまらないじゃない?」ということでした。そこに興味があるかどうかは人によると思うけれど、僕自身は在るものを隠さずに作品を提示する方が面白そうだなと思ったんですよね。昔、大学で演劇を学んでいて、その時には設定意外のものはみせない様にしてくださいと言われていて、それはなかなか身体から抜けない感覚でしたね。今思うと面白いけれど、お客さんの前に立つとドラゴンボールの界王拳みたいになっちゃうんですよ。
多田
ははは。「うわーっ!!」って立ってたの?隠す/隠さないの話でいうと、ダンサーもどれだけ動いても息が乱れちゃいけないって思っているよね。あれだけ動いているのに?ってことだけれど。中には追い込んで息が乱れるまで踊るカンパニーもあるけれど、BATIKくらい?
岩渕
たしかに、そうですね。でもダンスだと一時間かけて徐々に消耗していく、という形になりがちだけれど、今回の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』で思うのは、消耗したり疲弊する身体をみせているけれど、多田さんは一回身体を死なせるという構造を作っていますよね。
多田
はい。
岩渕
そこから再び立ち上がらせる。それで、それを繰り返す。そうする繰り返しの中に微妙なバリエーションが生まれてきて、極端さとか疲弊にも豊かさみたいなものがあるんだな、って感じました。疲れていく身体で、この作品に対抗するのは大変だぞ。と『再/生』を観た時に本当に思いました。
多田
そうですか。前にBATIKを観た時に「ダンサーも疲れているな、大変そうだな。」って思ったんです。でも自分が扱っている疲弊とは違うとも思った。疲れているけれど、踊れているというか。自分は踊れていない身体にも興味があるな、とか。
岩渕
お客さんはどう思ったかわからないけれど、超人…巫女さんとか神のような存在とかを観ることでみえてくるものと人間を観ることでみえてくることは違うのかな、と思うんですよね。それで、最初の多田さんは何をみているのかな?という疑問を持ったんです。
多田
あぁ。なんか、のっけから巫女さん出てきちゃうのは違うかな、と思う。服を着せてったら巫女さんになった!みたいのが好きですね。今回の作品では踊っていて疲れているけれど、輝きを増していく感じがあって。人であるんだけれど、途中から人を超えてダンスに、身体の表象になるみたいな。俳優でやるとなると、人であり続けるっていう感じが強いというか。
岩渕
なるほど。
多田
『モラトリアム』の冒頭で、貞太さんに立っていてもらったじゃないですか。あそこはたぶん、俳優では始められないんですよ。人間だから。
岩渕
お客さんが入ってくるところですよね。
多田
そう。人間だと思うとお客さんも警戒するけれど、ダンサーという存在としてお客さんに接触してくるから、お客さんも開いていけるというのがあって。巫女さんだから(笑)。
岩渕
そういう意味では多田さんの中でも言葉をあまり使わない作品と戯曲がしっかりした作品を演出する時の言葉と演技というのはどういう風になっているのかな、というのが気になりますね。
多田
それ言ったら、言葉とダンスもかなり気になるよ。
岩渕
あはは。
多田
それを考えると、自分がかなり前から作家ではないということで言葉と距離があると思う。言葉というのは自分がつくるものじゃなくて、他の人の中にあるという強いから。誰かが書いた戯曲だったらやれるし、自分の書いた戯曲だと気持ち悪くてつくれない感じ。でもやっぱり作品をつくるときに言葉を介在しているなとは思うけれど、物語というか。そう、物語はあるなと思います。これが来て、ああなって、だからこうなる、とか。言語的に構造をつくっているというか。
岩渕
なるほど。良いか悪いかわからないけれど、ダンスはそこら辺が曖昧でも”とばせる”というか…。
多田
そう!だからダンスを観ていると、「なんで?今のはなんで?え、なんで?」ってなる。
岩渕
ですよね…。
多田
ダンスを観はじめた時はその言語的な思考回路では意味がわからな過ぎたけれど、ここ数年でようやく「なるほどね。」と思うようになってきました。そしたらすごい面白いです。
岩渕
前にある演出家の方が観に来てくれた時の感想も、「すぐに自分はここにはこういう物語があって…って考えちゃうからそれを否定しながら観るのが大変だった。」と言われたことがあります。でも僕としては、じゃあダンス作品の流れというのはなんだろうというのを考える訳です。自分の場合は、シンプルにした方がいいなとは思っています。でも急にとんだようにみえることもあるだろうけれど…。
多田
作品をつくる時の流れというかシーンのつながり方とかは、感覚的なものなんですか?身体がそうしようと思えばできちゃうの?
岩渕
この数年は意識的に、徐々に積みあがるようにしているところはありますね。これがあったから次はこうなるとか。無かったように感じられるものが段々みえてくるように。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』の構成をみると「あぁ、なるほど!」って思います。いきなりぽーんとなにかをみせられるよりも、普通に人がいますよね。というところから、変化をみせていく。いきなり味が濃いものが出てきても食べられるし美味しいけれど、他のものが食べられなくなってしまうのと同じなのかな。だから料理のコースの構成とかも、ちゃんと考えられているんですよね。
多田
確かに、そうですね。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』の現場では、ついダンスに対して「演劇って…」という話し方になってしまって、違う国に居る時って「日本では…」という話をしてしまうし、あんまりフィールドを分けるのはつまらないんだけれど、ダンスの人が曲の歌詞をちゃんと聴かないと知った時は衝撃的でした。「お客さんは歌詞なんて聴かないよ。」と言われた時は本当に驚いた。
岩渕
はは。でも僕はやっぱりその意見も、少しわかりますね。ただ面白いなと思うのは、誰がどういう構成をつくって演出したかによって歌詞の聴こえ方も変わってきますよね。僕は東京デスロックの『再/生』を観た時には歌詞がすごくくっきり聴こえてきたし、舞台上にいる人が音楽のどこと向き合っているのかというのはお客さんにも伝わる気がする。
多田
お互いに知らない事はあるよね、ダンサーなら誰だって曲はカウントでとれるだろうと思いがちだけれど、決してそうでもなかったり。ダンスと音楽も気になる。
岩渕
ダンサーと音楽の関係って、当たり前過ぎてあまり深く考えないという域にきている気がします。昔からそうだった訳ではないと思うのですが。録音した音楽を流して踊るんじゃなくて、演奏者がいて踊りがあった時は考えていたはず。でも今は再生ボタンを押せば自動的に音がなるからそうなってきたのかな。という気もして。
多田
でも舞台上に音楽がかかるって、大事件だけれどね。何年か前から自分は人が立っていることも大事件なんだよなと思えてきて。だから、「ただ立ってみようか。」って俳優に言う。今回の作品でも最初音をかけない時間があって、音楽がかかると「うーん、大事件だよな。」って自分は思っている。
岩渕
ちゃんと考えれば、音と身体の関係性もいろいろな方法がありますし。大谷さんと作品つくるときに、音楽と身体の関係性を書き出してみたんですよ。ただカウントとるだけという場合もあるけれど、心理描写をする音楽とか、背景として使うとか、音楽から振付をつくるとか…。でもそういうことを意識しないで曖昧な選択でかけた音楽は、観る人にも曖昧に聞こえてくるんじゃないかな。それに音楽と出演者がどう関わっているのかも、細かく設定されていればわかりますよね。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』ではたぶんダンサーが音楽に立ち向かっているように観えるというか。
多田
そうだね。誰に対して音楽を鳴っているのか、というのは演出としては考えている。スピーカーが端にあったのを少し真ん中に寄せたのは、端にあると誰に対しての音なのか判り辛いと思って。どのスピーカーが鳴っているかは細かく変わっていて、後ろのスピーカーからの時はダンサーの為に、段々音を前に移してくと、お客さんの為に鳴っているみたいなつもりではあったんだけれど。『LOVE』という作品の時も俳優を踊らせるために音楽があって、同じ曲が繰り返し流れるんだけれど1回目、2回目、3回目と、仲良く踊ったり、喧嘩になって踊らなくなったり、最終的にそれぞれで踊ったり…。
岩渕
その作品は、言葉を使わないんですか?
多田
台詞としては使っていないです。立つ、座る、だけで色々なことを伝えられないかと。稽古場で、「立つと座るだけで会話できる?」ってやってもらったら結構できたので。あとは踊ったり殴り合うくらい。音楽の存在はとても大きい作品です。まぁ結局音楽との付き合い方も、演出家やダンサーによって様々ですよね…。
岩渕
確かにダンサー同士で動きのインプロやったとしても、「おっとこれは相手のことが全然わからないぞ。」という時はたまにありますし。
多田
そうなんだ。でもまぁ、身体ってそれぞれ絶対に違いますもんね。
岩渕
そうですね。できること/できないことが違うというのもあるし、許すこと/許さないことが違うというのもあるかな。
多田
あー…。
岩渕
それにはすごく、動くとか美しくあることに自然になじむと感じる人と、とても摩擦を感じる人とがいますね。ダンスを始めたのが遅い人ほど「なんでこの手が美しいのか?」ということが当然ではなく摩擦として感じられることも多いと思う。
多田
「この美しさいる?」みたいな?たしかにね。既成概念の様なものの捉え方というのは人によって差が出てくる。でも演劇だと言葉は圧倒的に共通して役者同士が使っているものが多いけれど、身体は人によって絶対的に違うからダンサー同士が共通してもっているものはあり得ないという所からスタートですよね。
岩渕
そうかもしれません。ところで多田さんが思う、俳優の訓練とはどんなものですか?
多田
訓練かぁ…。訓練は、とにかく「色んなところに神経張ってね。」ということですね。技術的なことは、個人で頑張れとも思います。自分にとって、つまり自分の作品では俳優には空間と時間と身体と言葉を駆使して舞台に居て欲しいし。人の代表じゃないですけれど、でも人間を表現するプロとして舞台上に居て欲しいので、しっかりと人間として生活していて欲しいな。とも思います。旅行したり、楽しく過ごすのも大事ですね。
岩渕
なるほど。
多田
「駄目だよ、家でテレビばっかり観てちゃ。」って感じです。自分の劇団は俳優も少ないので、外部の方を誘う時は一芸に秀でた人というか、得意技がある人の方がいいかなとは思っています。訓練といえば、ダンサーはどうなんですか?
岩渕
そうですね。僕の場合はいわゆるダンスの中のジャンルの技術を体系的に学んだことがなくて、色々なところから一部分を集めたりして今の自分の身体や動きをつくってきているので、いま自分以外のダンサーと作品をつくる時に、さっき多田さんが言っていた生活とは少し違うかもしれないけれど、高く飛ぶとかではなくて柔らかい体と言うか…、いい状態の体で居て欲しいなと思っています。でも言葉でそれを表現するのは難しいな。なにを〈良い〉と言っているかというと…。形の振り付けもあまりしないので、形で示す訳でもないし。
多田
あはは。そこが面白そうだけれどな。例えば「ダンサーは、どういう風にうまくなっていくんだろう?」と思う。高度な振り付けを踊っていったからって表現が豊かになるというものでもないだろうし。
岩渕
そうですね。やっぱり立ち方に象徴されたりしてくるから、テクニックが磨かれたからって舞台上に良い身体があるかっていうと、違うラインでの訓練も必要なのかな、と思いますよね。うまく言えないけれど。
多田
ダンスカンパニーの人は、一人の振付家とずっと付き合っていくことになりますよね。そういう場合に身体って、どういう風に変化していくのだろう?って不思議ですね。でもそれ言ったら、どうやったら俳優もうまくなっていくか俺にもわからないな。
岩渕
そうですよね。いわゆる〈教える〉とか〈育てる〉みたいなことは、普段考えますか?
多田
自分は俳優を育てようとは、ほとんど考えていませんね。だから俳優の為のワークショップが一番モチベーション低いです。「他の場所で育ってから出会いましょう。」と思ってしまう。例えば青年団の俳優ってすごくうまいと思っていて、それは平田オリザの芝居ができるからだけではなく、あれができる先にすごく色々なものがあって、だから台詞劇もできるし、フィジカルな作品もできる。青年団の芝居は、舞台上に居るときにどう外部の刺激を受けて、どう身体を制御していくかということができないとできないから。自分の身体は、音とか光とか言葉にどう反応しているのかというのをしっかり考えてくれている俳優は、一緒に作品をつくり易いですね。
岩渕
言葉にすると、面白いですね。最近、多田さんと一緒にやっている俳優さんでダンス作品に出ている人もいますよね。
多田
そうそう。変なことしている人は一杯います。
岩渕
僕もいまどこから音が鳴っているかとか、照明の明るさとかと身体がどうお付き合いをできるか、という部分をできる人と作品がつくりたいなと思って。そこは多田さんとも近しいところがあるのかな。
多田
あると思う。でも岩渕さんの場合は最初からそう思っていた?それとも興味が変わってきたの?
岩渕
たぶん、変わってきましたね。昔はもう、とにかく身体そのものだけに興味があって。しかもそれを自分の身体で尽きつめていくんだと思っていました。はじめのころは〈よろこぶ身体〉という言葉を使っていて、観ているだけでも楽しそうなアフリカンダンスとか、ああいう肉感的な身体の様なものにすごく興味があって、そういう身体をダンスと呼びたいと思ってやっていました。でもそれだけやっていても、自分の中側の世界に入っていく作業になってしまうというか。身体をつくるだけじゃなくて、身体と外側にあるものに身体を出会わせていくことにも興味ができてきて、最初に音楽に取り組んだという感じです。そうしたら次はなにと出会わせよう、なにと一緒に居たら面白いのかなと考えるようになって、ようやく作品づくりができる様になってきたなと思っています。それまではもう身体づくりをしていたというか…。
多田
これまであまり沢山ダンスを観た訳ではないけれど、その中でも貞太さんはダンスの中で特殊なんじゃないか、と思っているけれど。特殊なことばかりしている気がする。
岩渕
あはは、そうですか。僕がしていることがなんなのか、自分自身ではうまく言えなくて、観た人にどう伝わっているのかは聞いてみたくもある。
多田
東京デスロックも演劇を用いてはいても、演劇そのものからは段々距離が離れている感覚があるけれど、それと近しいところに貞太さんはいるんじゃないか、とは感じますね。持っている技術は違うけれど、身体感覚みたいなことをずっと考えているというか。俳優は身体の感覚とかに対して、あまりはっきり考えていない人が多かったりもするから。
岩渕
でもダンサーが全員、身体感覚についてすごく考えているかも難しいところかも…。でも自分でもやっていてよかったと思うのは、身体は本とか携帯電話みたいに家に忘れてくることは無いじゃないですか。歩き方とか階段の昇り降りだけでもすごく楽しめる。良いものみつけたな、という感覚はありました。
多田
へぇ、それは楽しいだろうなぁ。あと年を重ねていくと身体も変わるわけで、その変化とどう向き合って表現としていくか、ということも面白そうだなと思います。ダンスの全体のことはよくわからないけれど、貞太くんは近い将来どうなっていきたいとか考えていることはあるの?
岩渕
そうですね。これまでは身体となにかを一対一で、扱っていたんです。〈音楽と身体〉〈アニメーションと身体〉とか。でも作品での身体の環境を、なるべく自然に近くしたいというイメージはあります。サバンナじゃないけれど、木もあって鳥もいて光もあって…、色々な要素があって成立しているという形にしたいです。日常の中で成立していない世界なんて、ほとんど無いですよね。ごちゃっと色々なものがあっても、成立しちゃっている。作品の中でも身体と結ばれていくものを増やしていきたいな。
多田
あと踊る人のモチベーションって、どこにあるの?なぜそういうことをしたいの?
岩渕
外にあるものと繋がりをもつ瞬間とか、なにか線で結ばれたようになにかの世界がみえる瞬間が面白くてやっていますかね。自分は言葉でなにかを伝えるのがうまくないけれど、例えばこのマイクスタンドだって身体でコミュニケーションがとれることもあると思っていて。なにかが起きちゃう、というか。でもそう考えると「、ひとりじゃできないな。」というところに行きつきますね。
多田
なるほど。自分以外の作品をつくる人達は、どういうモチベーションを持っているのか気になって。20代のうちは、とにかくなにかを成し遂げたいとか認められたいという思いも強いけれど、30代ともなるとそうは言っていられないと思ってきて。自分はとりあえずその時代は終わったな、と。
岩渕
そう考えると僕の場合は、繋がりそうもないところに身体を通して線を繋げたいという欲求はあるかもしれないです。どこまでいけるのか、という感じというか。多田さんはこの先について考えていることはありますか?
多田
そうですね。いま〈越境〉というか、境目を考える活動が多いから、その境目を無いことにできることが楽しくて。今回の作品もダンサーとの垣根があるのではなくて、それを越えられると思うから作品をつくっているし。そういうことを、場所や地域、国という範囲でもできたらいい。そういうことしていると結構ひどい目にも会うけれど、そういう部分を耕していけるのは楽しいですね。演劇活動家、みたいになってきているけれど、でも演劇で世の中と繋がっている方が、自分の人生にとっては良い感じなんです。これで演劇やっていなかったら、自分は結構やばいことになっていたんじゃないかな。欲はあまりないけれど、演劇で世の中良くできることがあれば良くしたい。
岩渕
へぇー。
多田
そこは演劇とダンスの違うところかもね。でもとにかく舞台芸術を観た方が絶対良いという自信はある。観ない人生より、観た人生の方が絶対良い。人には必要だと思う
岩渕
おぉ。僕もそう思ってはいますが口に出したことはあまりないかも。なんか今日はもっと頑張ろうと思ったというか、自分のやっていることや考えをもっともっと強くして、伝えていきたいなと改めて思いました。ありがとうございました。
多田
いえいえ、こちらも楽しかったです。
2014年2月16日@急な坂スタジオ

 

 

多田淳之介

 

演出家・俳優/東京デスロック主宰/キラリふじみ芸術監督俳優の身体、観客、劇場空間を含めた、現前=現象をフォーカスした演出が特徴。古典から現代劇、パフォーマンス作品まで幅広く手がける。「演劇LOVE」を公言し、地域、教育機関でのアウトリーチ活動も積極的に行い、韓国、フランスでの公演、共同製作など国内外問わず活動する。
http://deathlock.specters.net/

 

 

*1『RE/PLAY(DANCE Edit.)』
多田淳之介演出作品『再/生』のダンスバージョン。きたまりがディレクターを務めた「Wedance京都2012」における「演劇とダンス/身体性の交換」と題した上演プログラムのひとつ。関西拠点の8人の振付家・ダンサーの強靭な身体を多田淳之介が仕掛ける劇構造の圧倒的な力で演出し、ダンスの身体の新たな可能性を浮かび上がらせた作品を、関東のダンサーと製作した。(2014年2月14~16日@急な坂スタジオ)

 

*2『モラトリアム』
2012年に発表された、東京デスロックメンバーと音楽家、美術家、ダンサーらによる作品。上演時間は8時間あり、観客はその間出入り自由。また明確な客席は設けられていない。

 

*3『再/生』
2006年初演の多田淳之介作・演出作品。5年の歳月を経て発表された改訂版『再/生』では、反復する身体を通して、再生に向かっていこうとする人間を描き出されている。